イタリア語の未翻訳書籍を紹介するコーナー(後に小社から発行となっている作品もございます) 『パン』 フランチェスコ・ディミトリ / イタリアの本棚 第15回


『パン』 フランチェスコ・ディミトリ / イタリアの本棚 第15回
15.Francesco Dimitri, Pan (Marsilio, 2008)

以前ここで取り上げた『蒸気の国のアリス』の著者フランチェスコ・ディミトリ。5月に出た新作『L' età sottile』をまだ読み終えていないので断言はできないが、現時点で彼の一番の代表作と言えるのがこの『パン』だ。

舞台は現代のローマ。この町に三きょうだいが暮らしていた。売れない手品師〈驚異のウェンディ〉、本名アンジェラ。大学で人類学の学士論文を書いているジョヴァンニ。そしてコミックマニアの16歳、ミケーレ。長女アンジェラとその弟ジョヴァンニは家を出て、一番下のミケーレだけが実家で両親と暮らしている。父はかつて大学教授だったが、現在はアルツハイマーを患い、まともなコミュニケーションが取れない状態にある。

クリスマスを境に、三人の周りで奇妙なことが起こり始める。ウェンディはあるパーティで手品の興行中、シルクハットからウサギが飛び出し、客は大喝采。だがそんな仕込みはまったくしていなかった。ジョヴァンニの研究テーマは「どこにも存在しない島」。つまり『ピーター・パン』のネバーランド。その「島」は作者ジェームス・バリーの創作ではなく、それ以前から子供や精神病者の夢の中に登場しており、ジョヴァンニは人間の心に潜む元型(まさにユング的な)のようなものではないか、と考えていた。図書館にいたジョヴァンニのところに裸足の少年が現れて、ある心理学雑誌のページを告げて去っていく。いったい何者なのか? そしてジョヴァンニは恋人の目の色が変化していることに気がつく。目の錯覚なのだろうか? ミケーレはアルツハイマーの父に起こる異変に気づく。父の嘔吐物の中に見つけた桃の種。彼がそんなものを一人で食べるはずもない。そして夜の街を徘徊するストリートチルドレンが頻繁に引き起こす凶悪事件。今になって三きょうだいと接触を図ろうとする、父の昔の友人アウグスト・ダル・マーレ。

ある日、ウェンディは親友ジャダから秘密を打ち明けられる。ゴミ清掃の仕事をしている彼女が路上のゴミ箱で発見したのは死んだ胎児だった。だがそれは人間のものでも動物のものでもない。大きな頭部から生えた角、大きく裂けた口、巨大なペニス、そして足はヤギに似た足がついていた。そしてウェンディとジャダの目の前で、死体と思われていた胎児は目を開ける……。これを機に事態は大きく動き始める。壁の落書きの中に書かれた文字。「彼が戻ってくる」と……。

『パン』はバリーの『ピーター・パン』を元にした、ポップでダークなアーバン・ファンタジーだ。「パン」はピーター・パンであり、同時にギリシャ神話のパンの神(もしくはファウヌス)でもある。元々バリーのピーター・パンの「パン」もこの牧神に由来するらしいが、ディミトリはこれを使って本格的に異教の神としてのピーターの物語を展開する。現代のローマとネバーランドが重なり、分離し、また重なりながら(この世界は〈肉〉〈魔法〉〈夢〉の三様相から成り、見方を変えることにより世界の様相を変えることができる)、蘇ったピーター、彼の命を狙うフック船長と海賊たち(彼らもこの現代ローマにおいては現代人としての名を持ち、現代人の姿で存在する)、そして三きょうだいそれぞれの戦いが始まる。

ピーターとフック船長の戦いは、秩序とカオスの戦いでもある。ピーター・パンはもちろんカオスの側だ。酒、ドラッグ、乱痴気騒ぎ、性的放逸など、ローマにカオスを撒き散らす。フック船長は徹底的で極端な秩序を目指して、ピーターを殺そうと企む(子供を守るという名目で徹底的な表現規制を行なうフック船長の姿は、まさに現在の日本の現状を思い起こさせる)。三きょうだいはそれぞれ自らの戦いへと赴く。ウェンディはジャダとともにピーターの側で、ピーターの行なうことを見届けようとする。そして敵の罠にかかったジョヴァンニは、ピーターと対立する道を選ぶ。〈母なる都市〉ローマのアーバン・シャーマンとなったミケーレは敵の追っ手を逃れてネミのディアナ神殿で修行に励む。父と母を殺したフック船長への復讐を果たすために。

ともかくディミトリは『パン』の中で、異教を徹底的に呼び起こす(ディミトリはペイガニズムやオカルティズムについての評論書も何冊か出版している)。古き神々の復活、死と復活のイニシエーションを経て新たに誕生したシャーマン、自然のスピリットたち、都会にうごめく近代機械のスピリットたち、三きょうだいの父がかつて信仰していた〈角を持つ神〉、ネミのディアナ神殿での儀式。神話、宗教、異教、オカルティズム、サイケデリック、文学、心理学、精神分析の要素がちりばめられ、宗教史を大胆に参照するこの物語は、コミック的で猥雑な魅力に溢れている同時に、物語ること、夢、イマジネーションが持つ根源的な力への確信が強く感じられる。ディミトリの出世作であり、代表作と言うにふさわしい作品である。

フランチェスコ・ディミトリ『パン』
Francesco Dimitri, Pan
(Marsilio, 2008)
 ~フランチェスコ・ディミトリ 『パン』~

イタリアの本棚 第15回
2013-08-15