『リヴィド』 フランチェスコ・ヴェルソ / イタリアの本棚 第18回
18.Francesco Verso, Livido (Delos Books, 2013)

2040年、メガロポリスは、無限に増殖する"キップル"に包囲されていた。つまりはゴミのことだ(正確には概念が少し違うが、それは後述)。あたり一面を覆い尽くすゴミや廃棄物。ゴミの山はますます広がり続けていく。多くの者は、特に貧困層は、ゴミをリサイクルし、再利用して暮らしている。捨てられた不要物の中に価値を見出して日銭を稼いでいる"トラッシュフォーマー"の一人、15歳のペーター・ペインズは、ゴミ集積場の側にあるコッレ・ヴァスト地区で、母と、5歳上の兄チャーリーと一緒に貧しい暮らしを送っていた。汚染物や廃棄物とともに暮らしていれば頻繁に起こることなのだが、ペーターは幼年期の事故により、片腕と片足を失っていた。そんな彼には憧れの女性がいた。旅行会社で働いている美しいアルバだ。身分不相応だと分かっていながらも、ペーターは毎朝わざわざ店の前を通り、アルバに挨拶をする。仕事の最中も暇を見てはゴミの山の上から、双眼鏡でアルバを密かに眺めていた。

ペーターの兄チャーリーは不良グループ〈デッド・ボーンズ〉のリーダーだ。チャーリーは、足手まといの弟を仲間に加えようとはしない。ある日ペーターは、こっそりチャーリーと〈デッド・ボーンズ〉の跡を追う。物陰に隠れたペーターの目に映ったのは、彼らがアルバを襲っている場面だった。怯えるアルバを押さえつけ、首を引き抜き、腕を、足を、胴体をバラバラにする。だが血は出ない。アルバは人間ではなく、〈ネクスマーナ〉だったのだ。〈ネクスマーナ〉とは、簡単に言えば人造人間のことで、人間の記憶をデータ化し、それを外部メモリにアップロードし、オリジナルの人格データとして保存、それを人工の素体にダウンロードした存在だ。病気や老化の避けられない肉体を捨てることにより、長寿を可能にすることできるというわけだ。

チャーリーたちは、アルバの首は投げ捨て、バラバラにした体は持ち去った。おそらくはジャンクランドに売り払うのだろう。その夜、こっそりと家を抜け出したペーターはアルバの頭部を見つけ、家に持ち帰る。その帰り道、リサイクル会社〈リヴァース〉の元エンジニアだった老人イオンと知り合う。ペーターは、物言わぬアルバの首を、自室の戸棚に隠す。彼はいつか、アルバの残りのパーツをすべて見つけ出すことを心に誓うのだった。

本書は3部構成になっていて、ここまでが第1部で、ペーターが15歳のときの物語だ。第2部は、第1部から5年後の物語。アルバの首を隠し持つペーター、キップルを憎み、〈ネクスマーナ〉もキップルだとして憎悪する兄チャーリー、兄弟の確執、友人となったイオンの謎めいた過去。イオンは〈ネクスマーナ〉に執着するペーターを心配しながらも、彼に協力する。ペーターは、アルバのパーツを一つ一つ取り戻していく。 実はパーツはリサイクル品として売られてはいなかった。〈デッド・ボーンズ〉たちが保持したままで、彼らによって性玩具として使われていたのだ。死体処理場や精神病院など、元〈デッドボーンズ〉たちの居場所を突き止めるペーター。一方チャーリーは、ペーターがアルバの首を隠し持っていることに気づき、事態は悲劇へと向かっていく……。 そして第3部では10年が経過し、ペーターは30歳になっていた。この第3部の展開については、詳しいことは書かないでおくが、ネクスマニズムの神殿で"オリジナル"のアルバと出会ったペーターは、兄との対決が避けられないことを覚悟する。そしてあのアルバは、ペーターの憧れていたアルバは、本当に復活するのだろうか?……

とりあえずここでは「キップルkipple」としておいた語は、原文ではpaltaだ。イタリア語のpaltaは、ヘドロ、泥、汚泥といった意味だが、これは、P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』イタリア語版におけるkippleの訳語である(その説明は、『Livido』巻末に記されている)。エントロピーが増大するように、キップルは必然的に増殖を続けていく。無価値なものを価値のあるものに変えるのがリサイクル。 それはゴミや廃棄物のリサイクルだけではなく、アルバを蘇らせる行為ともつながっていく。〈ネクスマーナ〉はキップルなのか? アルバに対して抱くこの思いは愛なのか? ディック的なモチーフが用いられつつ、独自の世界が展開されていく。価値のある物と無価値な物、人間と〈ネクスマーナ〉、オリジナルとコピー、本物と偽物、現実と仮想現実、純愛と肉欲、愛と憎しみ、生と死、それらの狭間で、ペーターは喪失感を、罪悪感を抱えながら、苦しみ、思索し、自らの進む道を求めていく、もの言わぬアルバの首を道しるべとして。 本書はペーターの一人称視点で書かれているが、さらに、ほとんどの文章が現在形で貫かれていて、まさにペーターの行動の場に、思考の場に居合わせているかのように感じさせてくれる。

この一人の孤独な少年‐青年‐成年の、ポストヒューマニズムの「愛」の物語を描いたのは、フランチェスコ・ヴェルソ。1973年生まれ。2004年に『Antidoti Umani』がウラニア賞の最終選考に残り、2008年に『e-Doll』でウラニア賞を受賞。2013年には、本書『Livido』でオデュッセイア賞(Dolos Booksが主催するSF長篇作品コンクール)を受賞し、書籍化された。ヴェルソは昨年まで、電子書籍主体のSF系専門出版社Kipple Officina Librariaで、SF叢書の編集に携わっていた。非常に高い評価を受けた『Livido』は、オーストラリアで紙の書籍として英訳出版が決定し、同時にその電子書籍版も刊行されることになっている。イタリアSFが持つ大きな可能性を英語圏世界に知らしめる絶好の機会になるだろう。

なお、タイトルのlividoは、青白い、土色、といった意味を持つ。本文中ではこの単語がときどき印象的に登場する。なかなかいい訳語が思いつかないので、タイトルはそのまま「リヴィド」にしておいた。

フランチェスコ・ヴェルソ『リヴィド』
Francesco Verso, Livido
(Delos Books, 2013)
 ~フランチェスコ・ヴェルソ 『リヴィド』~

イタリアの本棚 第18回
2014-02-15

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