『見えないものの踊り』


30.イタリア式離婚狂想曲


 普段は酒を飲まない僕が、今朝に限っては、買い物中にスプマンテのボトルを二本もカートに入れていた。そうしないといけない理由は何もなかったのに、だ。しかし、帰りの道すがら、その小さな謎がひとりでに解けてしまおうとは…

 大きなガレージの近く、トリオンファーレ市場の隣の建物には地下のフロアがあるのだけれど、僕が見る時はいつも閉まっていて、中からは光ひとつ漏れてこない。しかし近所の人たちは皆、そこにマリオとヌンツィアが住んでいることを知っている。
 彼らは市場の売れ残りを集めては、きれいに洗って食べている。何年か前からは、約百人前のミネストローネ用に野菜なんかを取り分けるようになった。「たすけあい都会サークル」が町の貧しい人たちにふるまうためだ。
 まあそんなわけで、最も冷やかに老夫婦を見ていた市場のおっさんたちまでもが、今では売れ残りのふりをして新鮮な果物や野菜なんかを少し残してやっている。そして気前の良さをもっともらしくしようと「かわいそうなやつらのためだ。あいつらだって食べていかなきゃならないんだから」とつぶやくのだった。

 今日は、閉まってばかりの地下室の扉がなんと開いているばかりか、奥から陽気な話し声に懐かしい音楽まで聴こえてくるではないか! 僕は階段を数段降りて、玄関をのぞいてみた。
 台所のテーブルの周りには、立っていたり座っていたりの友人同士の小さな集まりができていて、皆でコーヒーを飲んでいた。テーブルの中央には大皿に茶菓子がたっぷり盛られている。両端に座っているのはマリオとヌンツィア。彼らもまたコーヒー片手のパーティーに夢中だ。二人は花婿と花嫁の装いで、小さな窓から入る陽の光がスポットライトのように彼らを照らしていた。
 目の前の光景が夢みたいに不確かだってことを強調するためにすべてがわざとらしく準備されているみたいに見えた。

 「このヴェール、何歳だと思う?」
 ヌンツィアが聞く。その問いかけはすぐに参加者の情熱的な好奇心を満たし、それぞれが彼女のほうへ軽く身を乗り出して自分の考えを言い始めた。
 「五十年ものよ」
 僕はいつのまにかこぢんまりとした地下室の奥まで入り込み、壁ぎわに立っていた。この部屋はワンルームで大きくはないけれど、ベッドと洗面台とガスコンロがあって片付いている。

 「こんにちは、ヌンツィア。なにごとだい、君たち結婚したの?」
 「結婚はしてるよ、とっくの昔に。今日は離婚のお祝い。どうせ金婚式はもうやっちゃったからね。金のあとには何もないじゃない。だから、離婚しちゃったってわけ」
 愛嬌たっぷりに笑うヌンツィアの口元には残りたった二本になった歯が顔をのぞかせている。いつものように彼女は僕を冗談で煙に巻いていたのだ。

 ただ、現実には話はずっと深刻だった。
 この国では、マリオとヌンツィアのように、今や七十を超えているカップルが、何年も待ってようやく手に入れた最低限の年金を受け取ると、結婚している場合、税金をかけられるのだ。「二重収入」にあたるというのがその理由。
 そんなわけで、わずか十ユーロ余りの現金を失わないようにするため、二人は離婚を決めたのだった。地区の司祭も認めた。司祭がEU圏外出身だったのは幸いだった。二人の事情にすぐ理解を示してくれたのだ。

 僕はかばんから例の二本のビンを取り出した。
 「それじゃあ、乾杯しよう」
 自分がどうしてスプマンテを買ったのか、ようやくその訳がわかった。酒を飲まない者として、僕は生まれて初めて、健康を願って乾杯することになったのだった。


訳:あかりきなこ
大阪外国語大学イタリア語学科卒業。二〇一〇年、大阪ドーナッツクラブに加入。イタリア語に魅せられた和風テイスト。イタリアと日本の文化を比較・発見、発信することで人間味のあるライフスタイルを模索中。気になる言葉:手作りパスタ、リラクゼーション、自然、色、現代事情。


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