『見えないものの踊り』


35.目に見えぬ想い


 僕は六階に住んでいるけれど、降りるのにエレベーターは使わない。
 フロアをひとつひとつ通り過ぎていくと、最近ではそのほとんどがぴしゃりと閉ざされているとはいえ、それぞれの玄関からもれてくるかすかな音や会話の切れ端を横切っていくことになる。僕はそれが好きだ。

 僕はマンションの住人みんなを信頼している。毎日階段を降りているうちに、彼らは知らないだろうけれど、僕は彼らが抱える問題に接するようになった。
 彼らは家の中を歩きながら話していたりするから、どうしても会話はとぎれとぎれになる。でも、そういう細切れのフレーズから、普段は見えない別世界の様子が明らかになったりする。
 聞こえてくるのはどれも、毎日、いや一生を通じて誰もが繰り返し口にするような些細なことや悪態だったりするのだけれども、僕たちひとりひとりが持っている素晴らしき人間らしさが讃えられているようだ。

 そうそう、たとえば四階の住人が何万回となく殺すぞと妻を脅すのを耳にしてきた。もはや彼女は、際限なく浴びせられる悪態をごくごく普通の家族愛の表現だと解釈しているに違いない。「殺すぞ。いいか、殺してやるからな」。初めのころは、僕も立ち止まっていたものだ。叫び声や大きな物音がして、さすがにこれはまずいとなれば、いつでも突入できるように。
 五階の主婦は未亡人だ。彼女が聞かせてくれるのは、ラジオから流れる歌謡曲をなぞるように歌う声だけ。言わば、ひとりデュエットだ。
 ドア越しであっても、彼女の姿を想像するのは簡単。完璧な主婦として、あちらこちらの家具の埃を取るのに夢中になっているに違いない。どれもこれも塵ひとつないというのに。
 三階には金融関係の会社の事務所があって、そこのドアはいつも開いている。でも、やっとのことでこちらの耳に入るのは、電話の呼び出し音と女性秘書たちの従順な受け答えばかり。彼女たちのひとりが踊り場に出てきて、煙草を吸っている姿に出くわすこともあるが、どこか別なところにいる自分を想像しているのだろうか。そんな時には、きまって軽いほほ笑みを浮かべている。

 でも、ここ数週間で僕の心を最も強く打ったのは、二階の踊り場を通りかかったときに聞こえてきた、おそらくは六歳くらいの女の子の声だった。元判事で今は年金暮らしの男と会話をしているようだ。だが、彼はずっと一人暮らしだったはず。

 僕は立ち止まって耳を澄ませて驚いた。幼い子に特有のあのぶしつけな感じがないのだ。ふたりはどんな話題でも相手の言葉に割り込んだりせず、互いの想いを上品に表現し共有している。
 「それで、お昼ごはんは何にするの?」女の子が聞く。
 「トマトソースのフェットゥッチーネかな」男の声が答える。
 「あなたはどうしてそんなに大きいの?」
 「それはね、お前みたいに椅子に乗らなくても高いところにある缶詰がとれるようにだよ」
 女の子が大きな声で笑うのを耳にして、僕は階段をもう何段か下りることにした。そこからなら、部屋の中を窓越しに見ることができるのだ。ようやく彼は孤独ではなくなったのかなと僕は思った。
 ところが、その広い部屋には、ソファに座った彼以外には誰もいなかった。女の子の声を完璧に真似て、ものの見事に一人二役を演じていた彼以外には誰も。


訳:野村雅夫(ポンデ雅夫)
1978年、イタリア、トリノ生まれ、滋賀育ち。イタリア語は大阪外国語大学で学び、映画理論を専攻。大阪大学大学院博士後期課程単位取得退学。言葉と映像の関係性について、パゾリーニの映画論をベースに研究。アゴスティの訳書に、『誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国』(マガジンハウス)、『罪のスガタ』(シーライトパブリッシング)がある。大阪のラジオ局FM802でDJとしてNIGHT RAMBLER MONDAY(毎週月曜日深夜1時から4時の生放送)を担当。


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