『見えないものの踊り』


50.ガルバテッラのビンラディン


 僕がたまたま出くわした、ちょっと奇妙な出来事について話そう。場所はローマの外れ、生粋の下町ガルバテッラの辺りだ。

 ちょうど信号待ちで停まっているとき、乗っていた車のタイヤから空気が抜ける音が聞こえてきた。走行中じゃなかったのは不幸中の幸いだったし、おまけに目と鼻の先にタイヤの修理工場まである。
 ハンドルを切って車を空地へ運ぶと、こんな看板が目に入った。「タイヤ修理:どんなタイヤも素早く交換いたします」

 修理工場に入ると、アイボリーの、長いガウン風の服を来た男が、後ろを向いて何かをしていた。タイヤのボルトでも外しているのだろう。
 「すいません…」
 僕が声をかけると、男はこちらを向く。目の前にはオサマ・ビンラディンがいた。何てことだ。まさにあのお尋ね者、国際テロ組織のナンバー・ワンがいるじゃないか。
 「おう、あんたが何考えてんのか、ようわかるよ。みな同じ調子や。そやけどな、わしは生まれも育ちもローマやで」

 その顔は、指名手配の写真や、時折テレビで見かけるビンラディンと完璧なまでにそっくりだった。こてこてのローマ訛りとのキャップに、僕は戸惑った。
 「職務質問ゆうて、二回も交番へ連れて行きおった。腹立ったんでな、ポリどもと二回くらいやり合うたわ。そやけど、あいつと似てんのが犯罪やっちゅうんか? 職質がヤなら、整形でもせなあかんのか?」

 あの国際テロ組織の親玉と完璧なまでにそっくりな、ガルバテッラのビンラディンが語る話は、やはり長く複雑だった。
 彼の話によると、ツインタワーが崩壊するまでは、何の問題もない穏やかな生活を送っていたという。顧客も多く、すべてが順調に進んでいた。
 だけどあの日を境に、世紀の凶悪犯罪者なんて触れ込みで、テレビで顔をみかけるようになった。それ以来、工場に近づいて彼の姿を目にすると、誰もが車をバックさせて、どこか他のところへ行ってしまう。
 恋人までも、あごひげを剃って髪を切るように何度も頼んできたという。
 「そんなん、考えたこともあらへん。というか、あいつの方こそあごひげ剃って髪切るべきやで。世界のお尋ね者が髭を剃らへんからゆーて、何でわしが剃らなあかんねん?」
 まったく馬鹿げたことがだが、彼の恋人は「ラディン夫人」とからかわれるようになったので別れることにしたそうだ。
 「あいつみたいに、わしもそろそろ隠れる頃やな。せやないと、頭おかしくなってまうわ」

 僕は彼をなだめて、ビンラディンと似ていようが構わないと言った。僕にとって重要なのは、タイヤを交換してくれればようやく家に帰れる、ということだけだと。「もうすぐできるよ、大将」。彼は黙ってタイヤを交換し始めた。その手は、まるで自分だけに聞こえる静寂な音楽にのって踊っているようだった。修理も終わり代金を支払おうとすると、興味なさそうに小さな声でこう応えた。
 「支払いは店が持つわ。なんせ、わしは世界一の金持ちなんやろ?」


訳:稲葉伸之介(稲葉チョコレート) 大阪大学大学院文学研究科修士課程修了。2004~2008年、ローマ大学留学。専門はイタリア現代史で、陰謀渦巻く知られざる闇を研究中。現在は東京で翻訳・制作会社に勤務するかたわら、「ボン企画」に所属し各種イタリア関係コーディネート、翻訳、通訳、ガイド等にも従事。

ページのトップへ戻る