59.見えない鳥かご まるで仕事にでも出かけるかのように、男は毎日そのバールにやってくる。 彼と同じような年金暮らしの老人たちが椅子に腰かけて、サッカー・チームや選手についてあれこれと熱い思いや意見を交わしている。


『見えないものの踊り』


59.見えない鳥かご


 まるで仕事にでも出かけるかのように、男は毎日そのバールにやってくる。
 彼と同じような年金暮らしの老人たちが椅子に腰かけて、サッカー・チームや選手についてあれこれと熱い思いや意見を交わしている。いつもの風景だ。毎日毎日時間も忘れて、果てることなくサッカーのことばっかり話すために、きっと誰かがお金を払っているんだろうな。そんな声が聞こえてきそうなくらいだ。
 その男はそうした話には耳を傾けるばかりで、実のところ僕は、彼が言葉を発しているのを見たことすらなかった。彼は周りの人間とは違って、白ワインやオリーブを勧められるのをかたくなに拒み、カフェイン抜きの大麦コーヒーをカプチーノにして静かに飲んだ。僕があいさつをすれば、とても上品に、穏やかで軽い会釈を返してくれる。
 そんな彼が、スイスで謎の多い富豪の執事をしていたことはよく知られている。
 主人の死後、彼はローマに戻り、そのまま施設で年金生活をはじめた、という話だ。

 数日前、バールの主人が突然店を開けなかったことがあって、その老人は、勝手に臨時休した店主にどこかしら腹を立てるように、歩道をうろついていた。僕は我が映画館のロビーに彼を招き、そこでくつろいでもらうことにした。
 「おや、映画館でしたか…」。ため息をつくように彼は言った。「初めて映画館に行ったのは八十年前、私は七歳でした。ちょうどトーキー映画が世に出はじめた頃でしたね…」。
 それをきっかけにして、同じ感動を我々は共有できる、そんな思いが静かな波のように伝わり、僕たちは少しずつ言葉を交わしはじめた。こうしてその「けっして話さない男」は、繊細な言葉の流れに身をゆだねるようにして、僕にとっておきの話を聞かせてくれたのだった。

 「私がスイスでお仕えした方は、映画をとても愛しておられました。
 彼はその生涯で四本の映画を制作されましたが、けっしてそれを他人に見せることはありませんでした。どれをとってもすばらしい作品ばかりでしたねえ…」。
 「あなたはご覧になったんですか?」
 「まるで恒例行事のように。というのも、あの方は一年に一度必ず、屋敷にある専用の部屋でそれを上映することを望まれたからです。
 自身の作品はいつまでも古びることはない、そう確信しておられましたが、それでもそのことを自らの目で確かめたかったのでしょうね。
 まさに傑作、しかも圧倒的な傑作でした。あなたでしたら、ご想像いただけるでしょう。
 これまで作られたどんな作品よりも特別なものでした」。
 「どういう作品だったのですか?」
 「あの方がいうところの、見えない鳥かごを主題にしておられました。それは、人間の本来あるべき生き方を阻害し、彼らを囚われの身にしてしまうもののことです。
 最初の作品では、本物の知性を生半可な知識で塗り替えてしまう、学校教育という鳥かごについて取り上げています。二作目では、生きることの本当の意味を誰かれ構わずに奪ってしまう、労働という鳥かごがテーマになりました。三番目の映画では、結婚とそれに基づく共同生活という鳥かごの中では、愛を育み、またそれをより多くの人に伝えるのは難しいと訴えています。
 遺作となった四本目の作品で取り上げたのは、数ある鳥かごの中でもっとも悲劇的な鳥かご、生きとし生ける多くのものに、自らが何の見通しも自由もない存在であると信じ込ませる鳥かごでした。それによって人間は知らぬ間に、あの世での暮らしにのみ希望を抱くようになってしまうのです。

 もし人々が彼の作品を目にしたならば、世界は変わるかも知れませんね…。しかしユダヤ人の彼は、大虐殺で知られる収容所を経験したことで深い欝(うつ)に落ち込み、結局は私にそれらのフィルムを燃やしてしまうように命じたのでした。この世の人間どもに理解できるものか、あの方はうめくようにおっしゃいました…」。
 「それであなたはそのフィルムを燃やしてしまったと?」
 「…いいえ」。
 「では、フィルムは今どこに?」
 「私の暮らす介護施設に。ベッドの下にありますよ」。


訳:オールドファッション幹太
一九七八年、東京都八王子市生まれ。山形県大江町育ち、京都市在住。大阪外国語大学(現大阪大学)大学院学術修士。十一年に及ぶ学生生活の間、二度イタリアに渡り、一度は放浪三昧、一度は映画三昧の日々を送る。修士論文では、ネオレアリズモの父チェーザレ・ザヴァッティーニの登場を再構築するも、次第に「モノとしての映画=フィルム」に関心を移す。ボローニャ大学および伝説的シネマテーク「チネテカ・ボローニャ」での遊学が決定的なきっかけとなり、帰国後、古い映画(とその復元)でメシを食う道を選び今日に至る。シルヴァーノ・アゴスティ監督の作品上映イベント(二〇〇九年~)では、台詞の聞き取りと字幕の翻訳・作成を他メンバーと共同で担当。