『見えないものの踊り』


65.カロルとカロリーナ


 太平洋を臨む渚に大きくも優しい波が打ち寄せ、砂浜を覆い隠しては引いていく。
 波は僕の足元に木製の見事な人魚像を運んで来た。色あせた水色で、後にわかったことには、とても貴重なものらしい。
 専門家の先生が鑑定してくれたのだ。
 どうやら古代フェニキア人の小さな船が、いつどこでだかわからないけれど、ともかく難破したらしい。どうも、その舳先についていたもののようだ。
 人魚は二千年以上もの間、水面に浮かんで、見渡す限りいくつもの海をさまよった。フェニキア人だけが知る秘密のうわぐすりに守られて。
 はじめは大きな流木が流れ着いたんだと思った。
 こんな風にして、ときに人は、目立たなくて他と区別がつきにくいけれど、その実とんでもなく珍しいものに出くわすことがある。

 「みっつのこころ」というレストランのカロリーナもそう。
 僕はそこの常連で、彼女とよく話をする。彼女は六十歳。無垢で美しい顔立ちをした、とても魅力的な料理人だ。
 カロリーナとはもう打ち解けていると思っていたけれど、最近になって、心の奥深くにしまっていた思いを打ち明けてくれた。

 それはカロリーナの母親が十八のとき、ポーランドに住む親戚に招かれて、クリスマス休暇を過ごしに出かけたことにはじまる。
 すべてが魔法のように甘美で目新しかったので、さらに数か月そこに留まって、ポーランド語を習うことにした。
 彼女はそこ、クラクフの町で劇団員の若者たちと知り合い、そのうちの一人に好意を寄せていく。
 ふたりの間に生まれたあたたかい友情は、恋物語へと徐々に姿を変えていった。
 「ほかにはもういらないの。一度きりの、最高の恋だったわ」
 母親はいつもカロリーナにそう言っては、ため息をついていた。
 しかし、そこに戦争が勃発した。ドイツ軍がポーランドを占領したとの知らせを受けて、誰ひとり、親戚にすら知らせられないまま、彼女は闇夜に紛れてイタリアへ逃げ帰った。

 その数ヵ月後、彼女は妊娠に気がついて、きれいな女の子を産んだ。
 カロリーナの母親は初恋を貫いて結婚したがらなかった。戦争が終わると、至上の恋物語をともに紡いだ役者の若者に再会したくて便りを出した。
 ポーランドからの返信は、シンプルでとてもわかりやすかった。
 「彼は恋に破れた失意のうちに、司祭になりました」
 連絡先については何の知らせもなかった。

 それから三十年、レストラン「みっつのこころ」の厨房で、誰かが言った。
 「今度の教皇はカロル・ヴォイティワっていうポーランド人だってさ」
 カロリーナの母親は卒倒したそうだ。

 僕はカロリーナにこう言った。
 「つまり君は… 娘なのか。だからお母さんはカロリーナって名前をつけたんだね。だから君はこんなにも無垢で、美しいんだね。
 カロリーナ、すばらしいよ。
 きみの顔立ちは理想的だ。太平洋の波打ち際で見つけたフェニキア人の小さなマーメイドと、とてもよく似てる」


訳:セサミあゆみ(しょうとあゆみ)
一九八三年、広島県生まれ。イタリア語に魅せられ、ピタゴラスの歩いた町を眺めつつ遊学し、大阪大学大学院博士前期課程修了。調理師専門学校に勤務して食に携わる。もっぱらの関心事はことばと暮らし。


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