『見えないものの踊り』


90.抱擁


 僕が彼に出会ったのは、全くの偶然。それは夢の中での出来事のように、あまりにも突然のことだった。
 彼はとある街角に立ち、周りには人だかりができている。自らの思想を穏やかにそして朗々と語る彼を、人々はきょとんとした面持ちで眺めていた。
 男の背中には一枚の大きなプラカード。
 『抱擁を必要とする人のために、私はここにいる』

 僕が人だかりの方へ近づくと、彼は話を続けながらにっこりと微笑んだ。
 言葉を区切りながら、ゆっくり、そしてはっきりと男は語りかける。
 「子どもたちが教えてくれているじゃないですか、人生は愉しいお遊びだと。もしそれが本当なら、人生を楽しむのに何をためらうのです?」
 その表情はまばゆいばかりにキラキラと輝いていて、絵画の中によく登場する天使にそっくりだった。
 僕が超自然的なものを信じる人間なら、本物の天使だと思ったにちがいない。

 集まった人々の中から一人、また一人、もじもじと出てきては彼に抱きつく。女性たちだって眉をひそめたりなんかしない。彼の美しさに引き寄せられるかのように歩み寄り、そしてぎゅっと抱きしめる。
 一方彼は、抱擁とはどのようにするものなのかを丁寧に教えようとする。どの人も、彼に近づくとすぐにバッと抱きついて、そのやり方には愛おしさよりも神経質な感じがあったからだ。
 男は優しくソフトに語りかける。「心から愛おしく誰かを抱きしめる。そうするにはまず、そばに近寄り、腕を開く。相手の体を抱きしめるより前に、その人そのものを受け入れるのです。そして大切なのは、混じりけのない澄んだ眼差しで相手を見つめ、体そのものではなく、お互いのぬくもりを感じられるくらいまで近づくこと。
 そしてゆっくりと、相手の肩に手を置く。木の葉がひらりひらりと地面に舞い落ちるようにそっとです。その手をゆっくり背中へと滑らせてゆき、ふんわり優しく重ねあう。
 そこで目を閉じる。さあ、じんわり胸の奥にまで染み渡ってゆく感情に身を任せてごらんなさい」
 少しぎこちなさがあるものの、人々は彼の言う通りにやってみる。
 彼の無垢な腕から離れる時には皆、ふわっと浮くのだ。抱擁の後、僕もやはりそんな風に感じた。それはまさに、空中浮遊のようなものだ。
 間違いなく、これは、僕がこれまでに経験した革命的な出来事の中のひとつだと言える。

 警察がやってきた時には、男のまわりにはたくさんの人が集まってきていた。そこへ二台のパトカーが割って入り、急ブレーキをかけて止まった。車から降りてきたのは六人。二人は男からプラカードを外しパトカーの荷台へ取り付ける。他の二人がもう一台のパトカーへ男を誘導する。
 「誰かを抱きしめるのって、犯罪なの?」女性の声が響く。
 「犯罪ではありませんよ、ちょっとご同行いただくだけです」


訳:田中桂子(ツィスティーけいこ)
1979年生まれ。第15回いたばし国際絵本翻訳大賞イタリア語部門大賞受賞。訳書にイーヴォ・ロザーティの絵本『水おとこのいるところ』(岩崎書店)がある。日本とイタリアのものを中心に絵本を収集中。大阪ドーナッツクラブのウェブサイトにてイタリア絵本コラム担当。


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