『見えないものの踊り』


92.みんなはみんなとおんなじだ


 「弟のマウリツィオはダウン症なの。昔は知恵遅れとも呼ばれていたわね」
 僕はその果物屋の女の家に行き、マウリツィオに会ってみることにした。
 そのとき僕が見た彼は、ひじ掛け椅子に腰を下ろしたまま微動だにせず、どこかしら神様がウトウトとまどろんでいるようにも見えた。
 「ひとりでは動けないの?」その姉に聞いてみた。
 「トイレに行くときくらいかしら。でもそれさえ母親が手伝わなくちゃいけなの。自分ひとりでは何もできないのよ」

 マウリツィオとわが家で一緒に暮らしたいと申し出てみたところ、「お好きにどうぞ」とのことだった。
 彼が僕の家で暮らしたのは三年。最終的にマウリツィオは、ひとりでヒゲを剃れるようになっていたし、料理をすることもできたし、さらには体を洗ったり、自分で服を着たりすることもできるようになっていた。
 そればかりか、近所の小さな市場で働き口さえ見つけていた。野菜や果物の入った箱を、売り場から売り場へ運ぶ仕事だ。
 それまでの彼は、椅子にじっと座ってほとんど動くことなく育ち、母親がすべての面で代わりを務め、結果、その母親自身もそんな息子の自立を考えてもみなかった。それにもかかわらずの変貌ぶりだった。

 一方で、三年経った当時もそれまでと同様、依然として彼が他の誰とも違っていることをはっきりと示す特長がひとつあった。その妬ましくも思える長所は、時間に対する感覚がすっかり欠落しているということだった。
 彼にとって時間は、計り知れない広がりをつねに持つものだったとも言える。
 あるとき、少しのあいだ車を見張っててくれないかと、僕が彼に頼んだことがあった。僕はそのまま急な用事が入ってしまったのだけれど、彼は丸一日、誇らしげに胸を張って車を見守り続けた。
 つまりマウリツィオにとっては、それが一日であろうがひと月であろうが、まったく同じであり、そしておそらくそれは、三歳か四歳くらいまでのすべての子供がそうであるのと同様なのであろう。

 ある日、一時帰宅していた実家から帰ろうとしたとき、彼が部屋の真ん中で立ち止まったことがあった。
 「ばあちゃん、死んだ。俺、教会に泣きに行かない。だってばあちゃん、もう死んでる」
 それはひとつの考え方だった。古くから伝わる儀式の偽善におもねらない新しい倫理観、そして、朱に入っても朱く染まることのできないようなひとりの人間としての個性を、そのとき彼は生まれて初めて表現していたのだ。

 彼との短くない共同生活の中で、もっとも僕に衝撃を与えたエピソードが生まれたのは、ある夕食の後のことだった。
 マウリツィオは、食後に新聞を広げることがお気に入りだ。しかし、極度の近眼に加え、字も読めないものだから、彼の両手に開かれる新聞が上下さかさまであることもしばしばであった。
 あのときもそうだった。彼は景気よく新聞を広げたものの、僕が本を読んでいるのを見て質問したのだった。
 「何、読んでる?」
 「ヘーゲルが死に関する形而上学を論じたものさ」
 彼は「ああ」。
 この「ああ」が、まるで「ああ、あれね。よく知っているよ」とでも言っているようなのだ。
 そこで僕は、ある質問をどうしても彼にしてみたくなった。
 「ねえちょっと、マウリツィオ。きちんと聞いてよ。君にとってアイスクリームとげんこつ、どっちが良い?」
 すると、まるで哀れむような目で僕を見て、
 「ねえ、シルヴァーノ。おんなじじゃない?」
 それから微笑んで、「おんなじだ!」
 思うに彼はそのとき、きっと深遠なる何かとつながっていたのだ。そして、あれから数年が経った今も、僕はそれが何だったのかを考え続けている。


訳:オールドファッション幹太
一九七八年、東京都八王子市生まれ。山形県大江町育ち、京都市在住。大阪外国語大学(現大阪大学)大学院学術修士。十一年に及ぶ学生生活の間、二度イタリアに渡り、一度は放浪三昧、一度は映画三昧の日々を送る。修士論文では、ネオレアリズモの父チェーザレ・ザヴァッティーニの登場を再構築するも、次第に「モノとしての映画=フィルム」に関心を移す。ボローニャ大学および伝説的シネマテーク「チネテカ・ボローニャ」での遊学が決定的なきっかけとなり、帰国後、古い映画(とその復元)でメシを食う道を選び今日に至る。シルヴァーノ・アゴスティ監督の作品上映イベント(二〇〇九年~)では、台詞の聞き取りと字幕の翻訳・作成を他メンバーと共同で担当。


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