わたしの作品に日本人が登場するのは、妻が日本人であるということで、それによってインスピレーションを受けているのは間違いない。そのため、ありふれた言い方をするなら、日本はわたしの第二の祖国であり、その文化を吸収することができたからだ。 とはいえ、これはわたしの特殊な環境ではあるが、日本人や日本をテーマに取り上げる傾向は、イタリアではわたしに限ったことではない。 おそらく、イタリアで、日本のカルチャーが、若者、いやそれ以外の人々の間で、無意識に広まっていることを、日本人は知らないだろう。『マンガ』や『アニメ』はイタリアでは日本ブームの象徴だが、わたしは、そのことだけを指しているのではない。 〝マニア〟とは、本来医学用語で、物や行動に対する執着の病理学的状態を示す言葉だが、イタリアではよく「わたしは〇〇のマニアなの!」と、あふれんばかり情熱を表すときに使う。しかし、日本に対する〝マニア〟とは若者とアニメだけを結びつけた言葉だとは思わないでほしい。イタリアでは、文学、伝統、ファッション、言葉などあらゆる面で日本文化が広まっているのだ。 例えば、わたしも関わっているのだが、イタリアの出版社デロスには、カテリーナ・フランシオシという編集者がいて、〈シルクロード〉というタイトルのシリーズを手がけている。これはアンソロジーで東洋、主に日本をテーマにしている。もちろんこれらは日本人の作家が書いた作品ではなく、イタリア人の作家が日本について書いた短編の作品集だ。 当然ながら、ある国の文化それ自体と、その文化がどのように認識されているかということは、まったく別のものである。昼と夜のように異なるものだ。例えば、イタリア人が書いた、北海道の小さな村を舞台にした小説があったとしよう。日本の読者の方が、それを読むと、いわゆる固定観念と呼ぶものにぶつかり、違和感を覚えたり、混乱したりするかもしれない。 その逆もまたしかり。だれもがイタリア人はみな陽気で明るくて、社交的でのんきな人たちだと考えているだろう。しかし、孤独で悲壮感にあふれ、憂鬱なイタリア人がいることは保証できる。 日本では、イタリア人はみんな、おしゃれで、センスいい服をスマートに着こなしていると考えているようだ。わたしが出会った日本人は、わたしが世界で最もみすぼらしい恰好をしていることに驚いていた。(そして、イタリア人のなかでわたしだけが例外というわけではないことも事実だ) そんなわけで、日本マニアには、ステレオタイプの歪んだイメージも含まれていることは否定できない。とはいえ、自分が他人からどう見られているのか知ることは、とても興味深いことだと思う。だが、これはわたしの個人的な観察にすぎない。 ある意味、それは〝存在〟とか〝見せかけ〟とか、古くからある哲学的な議論でもある。わたしたちは存在しているとおりの自分なのか、それとも他人の目に映っている自分なのか? いずれにせよ、哲学的な考察はさておき、〝日本ブーム〟はイタリアにおいて重要な文化的現象であることは間違いない。 ところで、文化のなかで最も魅力的な要素である食べ物の話をまだしていなかった。今では、〝sushi〟という言葉を知らないイタリア人はいない。〝sushi〟とトラットリア(食堂のような意味)を組み合わせた〝susheria(スシェリア)〟なんて名前の店もあるほどだ! だから、実際に毎年何千人ものイタリア人が日本を訪れていて、浅草を歩くだけに留まらない。観光地とはいえないようなところで偶然イタリア人を見かけたこともあるし、なぜ、こんなところにイタリア人がいるのだろう、何をしにきたのだろうと不思議に思ったこともある。 実際にこんなこともあった。なぜか、ずいぶん前から、金沢にはイタリア人観光客が多くて、誇張しているのはなく、本当に右も左もイタリア人という状態だったのだが、バスにもイタリア人が乗っていた。ある停留所が近づくと、そこで降りたかったようで、「降ります!」と叫んでいた。日本語でもなく英語でもなく、イタリア語で!
(おわり) ルイジ・リナルディ(Luigi Rinaldi) 訳:高野由美(たかの ゆみ / Yumi Takano)