『禁句』(短編) ルイジ・リナルディ短編集より_『禁句』


『禁句』



 僕は、彼女の家に早めに到着し、不安を胸に呼び鈴を押した。チョコレートの詰め合わせを手に持っていたが、緊張のあまり力が入ったせいでパッケージがつぶれてはいまいか、心配だった。
 クラウディアがドアを開け、打ち解けた笑顔で僕を出迎えた。コンタクトではなく、眼鏡をかけ、黄色のスウェットを着て、ドイツブランドのスニーカーを履いていた。
 妙な感じだった。思いも寄らなかった、ごく内輪の場に入り込んだような感じだった。
「いらっしゃい、イタロ! おしゃれね!」
 僕がチョコレートの箱を彼女に渡して、軽くお辞儀をすると、彼女は礼を述べて、僕を招き入れた。
 前に一度だけ訪れた時と、インテリアがちょっと違っていた。玄関の壁に飾ってあった、軍服で盛装したお父さんの巨大な肖像画は、もう、なかった。やはり既に亡き人となっていた彼は、アメリカでテロリスト狩りをした、ファシズムの英雄だった。いくつかの家具の配置も変えられ、コンピュータがダイニングルームに置かれていて、まさに、そこで、一組の男女と遭遇した。彼らがいることは知らされていたのに、いざ目の前にすると、口がきけなかった。
 僕は作り笑顔で、右手を上げ、お決まりのしぐさをした。曖昧なうなずきを返された。
「こちらはイタロ、話してた友人よ。彼はギュンター、彼女はマルタ」とクラウディアは言って、紹介を続けた。
 金髪で、すらりと背の高いギュンターは、ドイツ人で、建築学部の学生だった。イタリア語が上手だった。一方、黒髪で、小柄だが均整のとれた体格のマルタは、マルコーニ学院で物理学を学んでいた。クラウディアは、大学のサークルに通ううち、彼らと知り合ったらしかった。確実に二人は恋人同士に見えたが、彼女は、それをにおわせるようなことは言わなかった。
 僕は、さらに観察し、彼らが明らかにエキセントリックであることに気がついた。ギュンターは、アメリカから入ってきた、ジーンズ=ジェノヴァ物とかいう、牛飼いが履く変な青いズボンを履いていた。マルタは、これは後で気づいたのだが、なんと、黒色人種ふうに鼻に小さい輪っかをはめていた! あまりにも破廉恥で、まさか人前に付けて出る人がいようとは想像もしなかった。
 クラウディアは、僕たちにコーラを勧め、座ってくつろぐよう言いおいて、自分はパイ詰め料理をオーブンから出しに、急いでキッチンに向かった。こうして、ひとり、他の会食者たちと残され、僕は、気づまりで居心地の悪い思いだった。彼らが最初に沈黙を破った。
「イタロ、きみも法学を学んでるの?」とマルタが僕に訊いた。
「ああ」と答えた。
「で、きみは、自分が勉強してる法律は公平だと思う?」とギュンターが、わずかにドイツ語なまりのあるイタリア語で、重ねて訊いてきた。
 なんだって? 質問が意味不明だと相手に察してもらおうと、僕は目を丸くしてみせた。
 幸運にも、クラウディアが湯気の立つパイ皿を手に、入ってきて、僕を窮地から救った。二人は拍手喝采で迎え、僕も、ほっとしながら、彼らと同じようにした。
 天候の話をしながら、僕たちは食事を始めた。
 ギュンターが、その時期のドイツはまだかなり寒く、より明るく開放的な気質のイタリアで暮らし、学ぶことができ、幸せだと言った。例えば、彼が初めて黒人をなまで見たのが、この国だった。そのエピソードに僕たちは大笑いした。彼は、オスト・ライヒ=東帝国の出身で、そこは死ぬほど退屈な場所だ、と語った。彼の生まれたヒムラーブルクには、原子力発電所、穀物倉庫、ウンターメンシュのウクライナ人用の謎に包まれた立ち入り禁止保留区域、それらがそれぞれ複数ある以外、何もなかった。ナチスによるゲルマン化達成のための東部総合計画地で農民として暮らす気は、彼にはなかったので、ベルリンに移り、アルベルト・シュペーア学院で一年間学んだ。ベルリンは、インスピレーションには事欠かなかった。けれどイタリアはずっと自分の夢だった、と彼は続けた。独伊交換プログラムの枠で、なんとか留学ヴィザを取得することができた。それで、こうしてローマにいるのだ、と。
 マルタが話に割って入った。彼女も、前年に奨学金を得るための申請をした。世界で最も権威のある名門マルティン・ハイゼンベルク物理研究所があるミュンヘンに行って学びたかった。けれど、重大なミスを犯してしまった。研究計画の提出文の中に「アインシュタインの一般相対性理論の単純化計算の考究」という一文を書いてしまったのだ。そのために、彼女の申請は却下された。
 ギュンターはうなずき、クラウディアは表情を変えないでいた。僕は、さっぱりわからなかった。
「マルタ、いいかな」と質問した。「どこがミスだったの?」
 会食者たち他三名は、共犯関係の視線を交わし合った。ことに、クラウディアは、なんともいえない妙な眼で、僕をじっと見た。
「世間知らずだったのよ、私」と、ようやくマルタが答えた。「一般相対性理論は、ハイゼンベルクの業績とされてる理論なのよ。でも真実は、それを言うのを禁じられてはいても、ユダヤ人のアルベルト・アインシュタインの考案だってことは、学生の誰もが知ってるわ。大学の廊下では大目に見られることでも、外では許されないの。わかる? 実際、私は警告までされちゃって……」
 彼女が言葉をそこで切り、ダイニングルームに沈黙が降りた。皿の上のフォークの音も止んだ。その理由はわかった。遠い記憶が僕の頭脳の働きを止め、その停止状態が、そのまま顔の表情に反映されていたはずだった。それは、なんにせよ彼らを驚かせたに違いなかった。
「今、なんて言った?」と、麻痺状態のまま僕は訊いた。
ユダヤ人丶丶丶丶のこと?」とマルタが言った。
「この言葉、聞いたことないの? 禁句よ、でも、禁句だからこそ、みんな知ってるわよ」
ユーデン丶丶丶丶!」と、めくばせしながらギュンターが付け加えた。
 僕は爆笑した。
 そして赤面した。思っていたような共犯関係を得られなかったのだ。それで、急いで僕は笑った理由を説明した。
 僕がファシズム政府少年訓練組織「バリッラ少年団」の団員だった時の出来事を彼らに語った。
 毎週土曜の午後に課せられていた「ファシストの土曜日」の或る日、リットーリア海岸でのスポーツ・文化活動で、僕たちは水風船合戦を企画した。二チームに分かれ、最も不快で、最も悪党で、最も堕落した、自分たちを恐ろしがらせるチーム名を考えて、その名をユダヤ人と共産主義者に決めた。僕は、ユダヤ人チームだった。
 誰かが密告したに違いないが、それを知った僕たちの司令官がやって来て、ゲームをやめさせ、僕たちを革ベルトの鞭でさんざん叩いた。いかなる理由でも、もう二度と自分たちの神聖な制服を、その恐ろしくも恥ずべき、禁じられた言葉で汚すな、と司令官は言った。ユダヤ丶丶丶の類だ、と付け加えた。恥さらしな行為であり、一イタリア人少年が口にし得る最も汚らわしい言葉だった。
 屈辱を味わった僕たちは、これ以上のどんな罰を食らうのか恐れおののきながら、尻の痛みに耐えつつ簡易ベッドに横になった。それ以来、その言葉が発せられるのを耳にすることはなかった、さっきの瞬間までは。これが爆笑した理由。尻への鞭打ち刑を思い出したのだ、と僕は笑顔で締めくくった。
 聞き手から得られたのは、ほんの薄ら笑いだけだった。クラウディアまでが、パイ料理に気持ちが行っているらしく、僕の説明にはほとんど興味がなさそうだった。
 ちょっとの間の後、ともかくもマルタが言葉を返してきた。「きみ、ユダヤ人が何者か、考えたことある?」
 僕はナプキンをつかんで口をぬぐった。彼らの態度から、どうしてだか非難めいたものが感じられた。とにかく、神経質にならないようにした。僕は記憶を掘り起こして、かつて聞いた四つのことを受け売りし、あてつけがましい退屈な演説調で、暗唱した。
「彼らは悪党で常に文明社会の敵だったと思われる。イエスを殺し共産主義を広めた。結局最後には自らの悪にむしばまれて絶滅した。不浄で病んだ者たちだった。いずれにしろ過去のことだよ。カムフラージュしながら、いまだに世界中に散在してるって話だけどね。UFOとかネス湖の怪獣みたいに、ただの伝説にすぎないよ」
 マルタは肩をすくめて、うなずいた。
「本当のところどうだったかなんて、誰にもわからないさ……」とギュンターが言った。
 僕は、最後に、クラウディアを見つめた。彼女の瞳が、眼鏡のレンズの奥で、すさまじいものに見えた。

(続く)

訳:橋本清美(はしもと きよみ / Kiyomi Hashimoto)