イタリアのポピュラー音楽が世界を席巻した栄光の1960年代が過ぎ去り、イタリアPOPSそのものが大きく変質を遂げた激動の1970年代。 ※本コラムの『03. 激動の1970年代』 をご参照ください。 今回のコラムはその次の時代となる1980年代について言及したいと思います。 1960年代が過ぎ去り、世界の中心から外れてしまったイタリアのポピュラー音楽の流れの中からも、一部の支流は1970年代後半から形を変え、また世界進出を果たして行きます。1970年代後半、世界的なディスコ・ミュージック・ブームが到来しますが、その震源地はヨーロッパで、その重要拠点のひとつがイタリアでした。その後のダンス音楽に『ユーロビート』という名前が残るのもその名残り。 北イタリアのVeneto州がこうしたユーロビートの一大産地で、アメリカで『ディスコの女王』の異名を取った故ドナ・サマーをブレイクさせたプロデューサーGiorgio Moroder(ジォルジォ・モロダー)も、Veneto州の北部に隣接するTrentino Aldo Adige州出身のイタリア人。彼は、アメリカ映画界でも数々の名サントラを手掛けて成功を収めます。(『フラッシュダンス』、『トップガン』など) しかしながら、イタリアのユーロビート音楽家の多くは、英語名の芸名を使ってイタリア臭さを意図的に消して活動したため、ユーロ・ビートの一大発信地がイタリアであることは、あまり知られていません。 また1982年にアメリカで故Laura Branigan(ローラ・ブラニガン)が大ヒットさせた楽曲"Gloria(グロリア)"は、イタリアのカンタウトーレUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)の1979年のヒット曲の英語カバーです。(ローラ・ブラニガンは、他にもUmberto Tozzi作品"Ti amo"や、カンタウトーレRafの楽曲もカバーしています) 英語カヴァー:Laura Branigan / "Gloria" (1982) オリジナル:Umberto Tozzi / "Gloria" (1979) こうして1970年代後半以降のイタリア音楽界は、再び世界的なヒットを放つようになって来たのですが、多くが英語カヴァーや、英語の芸名を使ってのものであることが、1960年代と大きく異なります。すなわち英語圏に対応した音楽でなければ、世界的なヒットが望めない構図が完全に出来あがったのがこの時期だったとも言えるのではないでしょうか。事実、1970年代~1980年代には、非英語圏の国々からも英語で歌って世界的なヒットを出すアーティストが活躍しています。(スウェーデンのABBAなど)。 1980年代のイタリア経済は、関税のコントロールが功を奏し、『イタリアものは良質で安価である』という戦略に成功し、ブランド物やデザイナーズキャラクターなどの輸出業で大きな成果を得て、ちょっとしたバブル景気を迎えています。 そして1970年代後半は存続の危機が囁かれたほどの低迷に甘んじていたサンレモ音楽祭も1980年代に突入すると、後に『La rinascita(再生・復活・復興)』と呼ばれるほど、奇跡の回復劇を果たします。 1980年はサンレモ音楽祭30周年となり、著名映画人Roberto Benigni(ロベルト・ベニーニ)が総合司会に抜擢されます。その時にサブ司会を務めたClaudio Cecchetto(クラウディオ・チェッケット/当時はDJ、後に音楽プロデューサーとして大成)が、翌1981年に総合司会の座に着くと、自作のダンス曲"Gioca Jouer(ジォーカ・ジュエ)"をテーマソングとして披露します。この" Gioca Jouer "とその振付は、瞬く間に国境を越えて、世界的な大ヒットとなります。 Claudio Cecchetto / "Gioca jouer" (1981) Gioca jouer - 25周年ヴァージョン (2007) 翌1982年もサンレモ音楽祭の総合司会を務めたClaudio Cecchettoは、しっかりとサンレモ音楽祭の復興に貢献し、その功績は後世にまで語り継がれるようになりました。 また1980年代のサンレモ音楽祭の功績は、後のイタリアPOPS界を牽引するビッグスターを多く排出したことでしょう。Fiorella Mannoia(フィオレッラ・マンノイア/1981年)、Zucchero(ズッケロ/1982年)、Vasco Rossi(ヴァスコ・ロッスィ/1982年)、Eros Ramazzotti(エロス・ラマッツォッティ/1984年)、Biagio Antonacci(ビァージォ・アントナッチ/1988年)、Jovanotti(ジォヴァノッティ/1989年)といった超ビッグスターたちが、この1980年代のサンレモ音楽祭を足がかりにしてキャリアをスタートさせていた事実はスゴイ事です。 Fiorella Mannoia / "Caff? nero bollente(沸いたブラックコーヒー)" (1981) Zucchero / "Una notte che vola via(飛び立つ夜)" (1982) Vasco Rossi / "Vado al massimo(最高速度で行く)" (1982) Eros Ramazzotti / "Terra Promessa(約束の地)" (1984) Biagio Antonacci / "Voglio vivere in un attimo(一瞬を生きていたい)" (1988) Jovanotti / "Vasco(ヴァスコ)" (1989) 一方、1980年代初頭の日本市場では、1970年代初頭のイタリアのプログレッシヴロックシーンに注目が集まり、アルバムリリースが集中して行われたこともあり、多くのプログレファン層を生み出すことに成功します。しかしながら1980年代イタリア本国では、既にプログレスタイルの音楽表現が廃れてしまっていたことから、結果として1970年代前半に活躍していたバンドや当時の様式美をのみを追求するブームと化してしまい、イタリア本国のポピュラー音楽をリアルタイムに聴くファン層が育たない結果を招く事となります。 唯一、本国とリアルタイムでアルバムリリースされていたのはMatia Bazar(マティア・バザール)ぐらいで、数度の来日公演も実現しています。このMatia Bazar人気は、TVCMにこぞってMatia Bazarの楽曲が使われた事が大きく貢献したようです。 Matia Bazar / "Il treno blu(ブルートレイン/邦題:愛のブルートレイン)(1983年-AGFマキシム) Matia Bazar / "Amami(私を愛して/邦題:郷愁の星)"(1985年-三菱ギャラン) Matia Bazar / "Ti sento(あなたを感じる/邦題:失われた島)"(1986年-ノエビア化粧品) Matia Bazar / "Souvenir(記念品/邦題:スーヴニール)"(1986年-日本生命ナイスデイ) また1980年代は音楽業界にとっては産業革命とも言える、大きな時代変革の時代となりました。アナログレコードからCDへと移行が行われた時代でした。従来のレコード会社にはCD生産のための莫大な投資を余儀なくされたため、資本力の弱いレーベルはメジャーレーベルと呼ばれる巨大な企業グループの傘下となることを余儀なくされました。 Warner、Universal、Sony、EMIという世界の4大メジャーレーベルは、アメリカ産の音楽の流通に力を入れているため、アメリカ経済の影響力の強い日本では特に、1980年代以降の洋楽がアメリカものに大きくシフトするのはこの影響が大きいのです。 近年は英語曲であっても、日本ではイギリスのヒット曲ですら流れない状況ですから、日本の洋楽がアメリカものばかりで牛耳られているガラパゴス現象を生じている訳です。 一方、世界のPOPSシーンが英語曲に牛耳られていく中で、イタリアPOPSは中南米市場に大きく進出する事となります。イタリア語原曲に加えて、スペイン語版やポルトガル語版でも吹き込むイタリア人アーティストも出現します。中にはイタリア本国よりも中南米での人気が高い逆転現象のアーティストも。これらラテン諸国とイタリアPOPSは相互作用し合い、イタリア語曲をイタリア語のままカヴァーするラテンアーティストや、アルゼンチンやブラジルのエッセンスを取り入れるイタリア人歌手も登場する現象が、現在も続いています。 そしてCD移行が完了した1990年代になると、また新しい時代を担うスターたちがイタリアから登場します。これはまた次回のコラムで。 Piccola RADIO-ITALIA YoshioAntonio こと 磐佐良雄 ***** 『第87回 イタリアPOPSフェスタ』開催のお知らせ(予定の内容) ***** ★イタリアで最近リリースされた話題作から 日時:2012年8月18日(土) 17:15~21:30 (16:45開場) 会場:東京・JR亀戸駅 徒歩2分 定員:先着20名様 参加費:1,000円 ※お申込み&詳細は以下のサイトまで。 http://piccola-radio-italia.com/
”きいてみ~よ!” ~ イタリアPOPSのススメ 2012 ~ 第4回 2012-07-27