昔、グレゴリオ・パニアグア指揮アトリウム・ムジケー古楽合奏団の『Trarentule-Tarentelle』というCDが、ぼくはとても好きだった。 特に、17世紀ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの写本から採られた1曲目「Antidotum Tarantulae」は、物悲しくも美しいメロディに、 この合奏団独自のアレンジが施され、色彩豊かな楽曲になっていて、繰り返し聴いたものだ。 そもそもこのCDは、毒蜘蛛に噛まれたときの音楽というコンセプトで制作されたものであり、そうした毒消しの曲を集めたものだった。 毒に侵された者が、これらの音楽を聴いて踊ることで治癒されるという。そんな奇妙な音楽が世の中にはあったのかと驚くとともに、 そうした怪しげなものが好きだったぼくは、わくわくしながら何度も何度もこのCDを聴いた。 ■ATRIUM MUSICAE de MADRID derection Gregorio Paniagua 『Trarentule-Tarentelle』
舞曲の一形式にタランテッラというものがあるけれども、 これは毒蜘蛛の毒によって錯乱するタランティズモがそうした音楽の起源だという説もあるそうだ。 毒のせいで踊り狂っているのか、踊ることで毒を治癒しているのかよく分からないが、 ともかくもタランテッラは、リズムに乗って無意識に踊りだしたくなる音楽だということは間違いない。 おそらくタランティズモは、本当に蜘蛛の毒にやられた症状だというよりも、 ヒステリーのような別の症状、または、例えば日本で言えば「狐憑き」のような憑依現象に似たものではないかと思う。 こうしたタランティズモ現象は、古くから南イタリアで見られていたという。 何年か前だったか『血の記憶』(Sangue vivo, 2000年制作)という映画を観た。 これはエドアルド・ウィンスピアという若い監督の作品で、南イタリアのプーリア州サレントを舞台にした兄弟の物語だった。 台詞のほとんどが方言という非常に地方色の濃い映画であり、物語がどうこういうよりも、 その濃厚な地方の空気と、そして、強烈な音楽がとても印象に残った。 劇中で演奏を行なっているバンド「グルッポ・ゾエ」の音楽。 実は、それもまた毒蜘蛛に噛まれたときの音楽だった。 でも、パニアグアが演奏した端正なタランテッラとは異なり、それ以上に激しく熱狂的な音楽だと感じた。 これもタランテッラなのだろうか。いや、もっと土の匂いのする音楽だ。 大きなタンバリンを叩き、アコーディオンを弾き鳴らし、歌い、踊る。 これは、今日残っているタランティズモ由来の音楽の一形式であり、 ピッツィカ、またはピッツィカ・タランタータというものだった。 ぼくはこの音楽にとても惹かれた。何と言えばいいのだろうか。 今まで忘れていた心臓の鼓動に突然気がついた、そんな感覚だった。 プーリア州のピッツィカについては、木下やよい『南イタリア・プーリアへの旅』(小学館、2006年)の、 「サレント地方伝統の大衆音楽とダンス、ピッツィカに酔う」の章がとても参考になる。 ■『血の記憶』(Sangue Vivo)DVD
■木下やよい『南イタリア・プーリアへの旅』(小学館、2006年)
この毒蜘蛛の音楽は現在非常に人気が高く、プーリアでは毎年夏に「タランタの夜」(La Notte della Tranta) という音楽イベントが開催されている。 もちろんこれは、現代イタリアの音楽イベントであって、地域の伝統や風習そのままのものとは言いがたいとは思うが、 それでもやはり一度は見てみたい。 (「タランタの夜」公式サイトhttp://www.lanottedellataranta.it/) このイベントの一部がCDとして記録されている。 ■『La Notte della Taranta 2005』
■『La Notte della Taranta 2005』
一時期は忘れ去られていたピッツィカは、近年の再発見によって広く普及されるようになった。 これは一地域の伝統音楽の域にとどまらず、大きく広がる可能性をもっている。 「タランタの夜」のCDでも、ルーチョ・ダッラやフランチェスコ・デ・グレゴーリといった イタリアポップス界を代表する大御所ミュージシャンがゲストとして参加している。 また、前回少し触れたが、エドゥアルド・ベンナートは以前から地中海の伝統音楽にこだわった曲作りをしてきたが、 近年はタランテッラをテーマに作品を作っている。 ■Eugenio Bennato『Taranta Power』
このCDには、冒頭に挙げた「Antidotum Tarantulae」も収録されている。 蜘蛛の毒に侵され、錯乱し、トランス状態になって踊り続ける人たち。 昔、「ぼくは憑かれた人々を研究するよりも、憑かれたいのだ」と語った民族学者がいたけれども、 ピッツィカの音を聴いていると、その意味が少し分かったように思う。 その音がもたらす快楽は、血の記憶を蘇らせ、ぼくの内に流れる太古のリズムに気づかせてくれる。 もちろんぼくはプーリア人ではないし、やはりその音はぼく自身の音ではない。 けれど、憑かれることの快楽はよく分かる。音楽の毒に侵された者たち。音楽に憑かれた者たち。 ぼくたちは、ずっと、踊り続ける…… その他の参考CD ■『イタリアの民族音楽』I-III
イタリアの民族音楽といっても地域によって多種多様であるので、ぼくのように、 ただ気に入ったものを気ままに聴いているだけでは、とても全体像はつかめない。 だが、一通り概観をつかむことができるのがCD『イタリアの民族音楽』である(残念ながら現在は入手困難)。 これはイタリア各地で伝統音楽の現地録音を行なった3枚シリーズであり、 Iには「踊り、楽器」「宗教的歌謡」、IIには「物語歌」「民衆劇」、IIIには「民謡」が収録されている。 今回触れたピッツィカ・タランタータ(プーリア州レッチェにて録音)もCD-Iに収録されている。 ■L'Arpeggiata-Christina Pluhar『La Tarantella』
古楽アンサンブル「ラルペッジャータ」が、タランテッラをモチーフに制作した、非常に評価の高いアルバム。ピッツィカも収録されている。 ■また、イベント「タランタの夜」の映像は、YouTubeで検索すると、いくつか見ることができるようだ。例えばこれとか。
イタリア音楽コラム ~ イタリア語の歌を聴いてみませんか? ~ 第9回 2008-12-16