『不思議の国のアリス』の翻案やパロディ作品はメディアを問わず多数存在する。タイトルからわかるように、本書『蒸気の国のアリス』もそうしたもののひとつである。舞台はロンドン。文化人類学者アリス・リデル(29歳)は自殺したくなるほどに退屈していた。そこで、命の恩人であり育ての親でもあるシュトルツェ教授の反対にもかかわらず、アリスはスチームランドの探検に出かける。高い壁に囲まれたロンドンの向こう側がスチームランドだ。気球で壁を越えて、まだシュトルツェ教授以外誰も行ったことのないスチームランドへ向かうアリス。スチームランドは未開の国だ。〈蒸気〉に満ちた非常に危険な場所なのだ。〈蒸気〉は普通の蒸気ではない。 数千年前のこと、使い方もわからない太古の「古代テクノロジー」の機械群が発掘された。そして、ある天才科学者がゼロから蒸気機関を発明し、その「古代テクノロジー」の機械群を作動させることに成功する。こうしてロンドンはわずかのうちに世界有数の大都市になった。実はこの「古代テクノロジー」とは私たちの時代のテクノロジーである。つまり、この物語は現代文明が消え去った遥か未来の物語であり、物語の中のロンドンは、現実の19世紀の蒸気文明を擬似的に、しかも歪んだ形で再現したロンドンであることがそれとなく読者に知らされる。そして「古代」のテクノロジー機械を蒸気機関で動かす際に副次的に発生したのが、普通の蒸気とは異なる〈蒸気〉である。 この特殊な〈蒸気〉には3つの特徴があった。1つ目、これを吸った者に強烈な幻覚を見せ、共感覚を生じさせる。つまり幻覚の中、五感は混合されて、知覚が支離滅裂になってしまうのだ。2つ目、〈蒸気〉を吸う者に、〈ミュータント〉の子孫を生み出す危険性を高めてしまう。3つ目、〈蒸気〉には物体を浮遊させる力があり、〈蒸気〉に乗ってグライダーのように空中を滑空することができる。 こうしてロンドンから垂れ流された〈蒸気〉は外の世界に広がり(ロンドンは高い壁によって〈蒸気〉から守られている)、数千年の時間をかけて、人間と姿の異なるミュータントの住む野蛮な世界が出来上がっていった。それがスチームランドだった。 アリスは抗幻覚剤を注射することで〈蒸気〉の幻覚作用を抑えて、スチームランドに降り立った。〈蒸気〉が霧のように漂う中、「古代テクノロジー」の残骸があちこちに小山や丘を作っており、原住民のミュータントたちはその残骸の山に穴を掘って家を作って暮らしていた。アリスは〈ドードー人〉マーティの家に厄介になり、いろいろなものを見聞きするうちに、この国はロンドンの人々が想像しているような野蛮な世界ではなく、独自の文化システムを持った世界であることに気がついていく。 スチームランドには、いつの頃か残虐な〈女王〉とその護衛役の〈白兎〉が現れて、その支配領域を広げていた。いくつかの村が襲われたという噂もあった。あるとき、マーティは〈白兎〉の接近に気づき、アリスと、〈蒸気〉中毒により廃人になっている弟分の〈ビーバー人〉ザップを無理やりにシェルターに閉じ込める。敵の狙いはアリスなのだ。我慢しきれなくなったアリスがシェルターを出て、村の様子を見に行くが、すでに村は破壊しつくされた後だった。村人は全員虐殺され、生存者は一人もいなかった。笑みだけを残して消える〈猫人〉チェシーの話から、北の地に〈女王〉と〈白兎〉に抵抗を試みるパルチザン組織があることを知り、アリスはザップを連れてその地に向かう。 北へ向かう旅の途上で起こったある危機的な出来事、そしてサムライ修道士の〈猿人〉ミヤモトとの出会いにより、アリスは抗幻覚剤を捨て、〈蒸気〉を受け入れ、世界のあり方を知り、幻覚で歪んだ認知のコントロールの仕方を学んでいく。そしてパルチザンとともに、アリスは、〈女王〉や〈白兎〉との戦いに臨むのだった…… ……と、アリスの話はこのように続いていくのだが、実はこのアリスの物語は、現代のロンドンに住む若者ベンの元に送られてきたメールに添付されていた小説なのだ。ベンは〈不思議の国のアリス症候群〉(知覚された物の大きさが異常に感じられる症例)の患者でもあり、日々幻覚に悩まされていた。小説を読むベンの物語が時折挿入されながら、アリスの悪夢の物語はさらに続いていく。圧倒的に不利な状況にあるパルチザン、熾烈を極める敵との殺し合い、〈森〉のすべてを包含する謎のクリスタルの花と世界との関係、ザップの秘められた過去、世界創生から存在する〈霧の中の予言者〉、そして〈蒸気〉の秘密、さまざまな謎が示される中、アリスはスチームランドの真実へと近づいていく。何が現実で何が幻覚なのか、そもそも〈蒸気〉が見せるのは幻覚なのか、存在とは何か、無とは何か。哲学的な問いも孕むアリスの物語を読んでいくうちに、ベンは得体の知れない奇妙な感覚にとらわれるようになっていく…… 非常に凝った世界設定、個性的なキャラクターたち、主人公を襲う容赦ない責苦、血沸き肉踊る熱い活劇、血や臓物が飛び散る過激な戦いの描写、〈蒸気〉を吐きながら動く機械、世界についての観念的な会話、メタフィクション的な仕掛け等々、さまざまなアイデアが全編に渡って無骨なほどにぎっしり詰め込まれた作品だ。 『不思議の国のアリス』をモチーフにした作品は数多く、独自色を出すのはなかなか難しいと思うが、本書はオリジナリティ溢れる作品に仕上がっている。特に幻覚性の〈蒸気〉に満ちた世界という設定は魅力的であり、抗幻覚剤の切れたアリスが知覚する世界、五感が混合した世界の描写は非常に面白い。 全体の流れは意外とオーソドックスであり、独特の世界になじめば非常に読みやすく、王道的な盛り上がりを見せる展開には思わず拳に力が入る。軽妙なパロディ小説かと思いきや、直球勝負の骨太の幻想小説である。現在「剣と魔法もの」が席巻するイタリアのファンタジー界の中で、ダークでグロテスクなアーバンファンタジーと言える本書は、ずば抜けて異彩を放っている。 ヴァレリオ・エヴァンジェリスティやアラン・D・アルティエリといったイタリアの人気作家が本書の著者に高い評価を与え、期待を寄せているのも頷ける。 『蒸気の国のアリス』の作者は、若手のファンタジー作家の中でも極めて大きな注目を集めているフランチェスコ・ディミトリ。1981年、南イタリアのマンドゥーリア生まれ。現在はロンドン在住。本書は彼の3作目のフィクション作品である。前作の『Pan』は『ピーターパン』をモチーフにした作品であり、これも非常に高い評価を受けた。ちなみに本書の中で、すでに古代遺跡となっている数千年前の核シェルターの中の書庫で、アリスが『指輪物語』の隣に『Pan』を見つけるシーンがあって、思わず笑ってしまった。 なお、書籍画像は2012年発行のペーパーバック版を使用。
Francesco Dimitri, Alice nel paese della vaporità (Salani, 2010) ~フランチェスコ・ディミトリ 『蒸気の国のアリス』~
イタリアの本棚 第5回 2012-09-14