02.あの丘の上から 数日前から、町を一望できる丘の上で、ある家に厄介になっている。ここにいると、子どもの頃によくやっていた遊びを思い出して、またやってみようかなんて気持ちが沸き起こってくる。


『見えないものの踊り』


02.あの丘の上から


 数日前から、町を一望できる丘の上で、ある家に厄介になっている。ここにいると、子どもの頃によくやっていた遊びを思い出して、またやってみようかなんて気持ちが沸き起こってくる。
 家々の壁がさっと透明になるのを想像するのだ。すると、そこに住んでいる人々の様子が見えてくる。それを頼りに、彼らが何を言っているのか、仕草から当てる。
 あの頃の僕には人々が「見えた」んだけれど、今の僕はただ彼らを想像する。

 朝、彼らは起きると洗面台へ向かう。服を着たら、慌てて朝食。仕事や学校(後々晒される仕事の抑圧に子どもたちを馴らすようなタイムスケジュールが組んである)へ行くために出かけると、バスの車内で長い間身動きが取れなかったり、すし詰めの地下鉄でしょっちゅう押し潰れそうになったりする。働いたら、お昼を食べるためだけの休憩をとって、また仕事。そして、ほとんどいつも暗くなってからのご帰館。

 自宅では、テレビの照り返しがチラチラ。青い光が目まぐるしく動くあの長方形の前では、ほとんどの人が身動きをしない。そうやって過ぎていく日々。彼らの行動パターンが変化するのは、土曜日か日曜日のみというありさま。

 「スケルトン」という僕の魔法がかかって、眼下に広がる家々の壁が消えゆく。そこに立ち現われるのはつまり、ほとんどの人が辿らされる、他に選択の余地のない道のりだ。僕は心が描き出すそんなイメージを、どうしても解釈してしまう。あの独房のような小さな家にあって、人々は看守でもあり囚人でもあるのだと。

 心身ともに衰えるまで、彼らはただひたすらに人生をすり減らしながら、来る日も来る日も、それぞれに虚しきゴールへと夢中で歩み続ける。ちょっとした息抜きはあっても、気づけば意欲とはとっくにおさらば。おまけに不治の病を抱え込んでいたりする。
 個人レベルだと真っ当にすら見えかねないこうした生き様も、大衆レベルともなると、人々をガチガチに規定するシステムの残酷さと非人間性を浮かび上がらせる。これも運命なんだから、受け入れるしかないし、仕方ないことなんだと人々が考えるときにはなおのことだ。

 眼下のこの「目に見えない」人たちは、来る日も来る日も、今日から明日を夢見て、その夢の中へと移民するようにして夜を越える。まるで明日こそが、自分に幸をもたらすたったひとつの新天地であるかのように。
 どっこい、彼らは翌日もまた仕事の猛烈さにひれ伏してしまう。それでもまだ足りないのか、彼らはどんな犠牲を払っても達成すべきものだと植えつけられた目標とやらにまで屈してしまう。たとえば、社会に従順な子を育てるとか、生活が苦しくとも恥を忍ぶとか。さらには、希望もないのに社会に誠実であろうとする、矛盾に満ちながらもある意味非の打ちどころのない道徳心を後世に残すだとか…。

 永遠という限りのない時の流れの中で、僕たちが生きるのはたった一度きりだってこと。いったいどんな不思議な力が、こんな大事なことを忘れさせてしまったんだろう。半日だけでもいいから、労働という災厄(聖書にその災厄としての起源があるのはたまたまじゃない)から解放されたり、世界を見聞する権利があるってことも、今やすっかり忘れちゃってる始末だ。
 遊び、愛情、人間的ふるまい、欲望、それにもちろん、もろもろの計画にあこがれや夢。こうしたものを再発見するための半日が、僕たちには必要なのだ。

 姿を見せない迫害者たちには、人間らしさを尊重するなんて発想は微塵もないのだけれど、実は彼らも同じ網に絡み取られていたりする。権力を持つ者は、人生に本当に必要な時間を他人に与えないばかりか、同時に自分にすら本当の意味で生きることを許さないものなんだよな。


訳:野村雅夫(ポンデ雅夫)
1978年、イタリア、トリノ生まれ、滋賀育ち。イタリア語は大阪外国語大学で学び、映画理論を専攻。大阪大学大学院博士後期課程単位取得退学。言葉と映像の関係性について、パゾリーニの映画論をベースに研究。アゴスティの訳書に、『誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国』(マガジンハウス)、『罪のスガタ』(シーライトパブリッシング)がある。大阪のラジオ局FM802でDJとしてNIGHT RAMBLER MONDAY(毎週月曜日深夜1時から4時の生放送)を担当。