太った人間をうらやましく思うことがある。彼らときたら、とてつもない体重を気にも病まず、それどころか自分の体形を変える気もないようだ。 わら縄を張ってイスをつくる職人を探していたときのことだ。その職人は、工匠の芳しさを放つさまざまな人々同様、今ではほとんど見かけなくなった。間違った道を教えられた私は、いくつもの路地を通り抜けるはめになり、ついには袋小路に迷い込んだ。そして、その小路の終わりに、正真正銘、生身のブッダがいるのを目の当たりにした。 見た目からして三百キロはあろうかという一人の男を想像していただきたい。彼がまとう金色のペプロスは、無限に広がるその体を悠然とくるみ込んでいる。色とりどりのドレープに埋もれながら、巨大なブッダは祭壇型の玉座のようなものに腰を下ろしている。 その瞳は晴れやかで落ち着いており、口は神々しい笑みを浮かべ、くっきりと光り輝いている。誰もいない小路は、この珍奇な人物を見張り、守っているようにも見えるではないか。周りの家からは、神がそう望んでか、物音一つしてこない。 東洋風の着こなしをした、このとんでもない生命体。遠目には、向こう見ずな旅人たちが小路の果てによりつかないようにと、巨大な像が置かれているようにも見える。この場所やその先に好奇の目を向けることは、いまだ堅く禁じられている。生けるブッダがいることもあり、妨げられず、永遠に続くこの静けさを破ることは、誰にもできないのだ。 すぐそこ、変わらずにほほ笑んでいるブッダの目の高さに、水色の貼り紙があり、そこに大きくこう書かれている。 「毛沢東博物館 世界にここだけ」 あまりの美しさに私は心をうばわれ、気絶しそうになった。ここで私が言う「美しさ」とは、影と暗がりと光が、緻密に交差し合う調和のことである。それは完璧で、称賛に値するのだ。 しかし、ここはローマの町の真ん中にある小路である。私は生けるブッダの方へ果敢に歩み寄った。ブッダの広大な腹の上で組まれた手が、我慢できずに震えているのを見て、私は勇気がわき、彼に言葉をかけた。 「中を見てもいいですか?」 「いいに決まってらぁ、にィちゃん。でなけりゃ、ここで何(なん)しとぉ?」 生き神さまのローマ弁は、一瞬にして神秘的な空気をブチ壊した。 自分の感動がぼこぼこに打ちのめされてしまったことに対して、私が唯一とれた行動は、崩れ落ちた感動というがれきの上で泣きわめくことくらいだ。世間一般でも、似たような感覚に陥ることがあるだろう。例えば、聖母マリアの生き写しに出会い、その美しさに感激したはいいけれど、当の彼女がヴェネト地方のきつい訛りで話しかけてきた、なんてことが、みなさんにも起こるかもしれない。何はともあれ、私は博物館に入った。毛首席の肖像画が何枚もあり、それぞれに引用句が添えられている。その中の一つ、チェ・ゲバラの言葉が目に入った。 「真の革命家の心には、みな愛情が宿る」 しわがれたブッダの声が聞こえてきた。 「六十八年の学生運動じゃ、毛沢東のポスターを壁に貼ってまわらなかったのはワシぐらいなもんさ。だが、今じゃポスターを貼ろうってのはワシだけなんだな」
訳:二宮大輔(ハムエッグ大輔) ローマ第三大学で勉強するかたわら、翻訳などに従事する。専攻は現代イタリアの言語学と文学。最近の興味はモーロ誘拐事件をはじめとする1970年代の社会史。