どんなものでもいい。一つ決めごとをして人生に変化をつけるだけで、物事はひとりでに起こる、いや、花開く。そして、世界の果てや国境も気にせず、いつまでも冒険しつづけていいような高揚感を生み出してくれるのだ。 ローマの美しい自然公園、ヴィッラ・ドリア・パンフィーリに週二回は訪れて、散歩かジョギングをしようという決めごとは、私に数奇な人物との出会いをもたらしてくれた。 彼がいるのに気付いたのは、半ズボンに白いTシャツといういでたちだったからだ。立っているだけなのに、ずっと小刻みにジャンプしている。まるで際限なく踊り続けているようだ。 彼は二十歳を少しすぎたくらいの青年で、毎日この公園の小道で体を鍛えているらしい。 「やあ」彼のもとまで行って、ぼくは声をかけた。 「おはようございます」彼が答える。笑ってくれたので、質問がしやすくなった。 「きみは何かのチャンピオンかい?」 「まあ、そうですね」 謙遜もせず彼がそう答えたので、私はびっくりしてしまった。 「すみません、今練習中なので」 そして彼はとんでもない速さで私の前を駆け抜けていった。稲妻のように。 彼の足はストロボ効果を生み出しながら動いている。数分後、ほとんど息も切らさず、私のところにもどってきた。 「とんでもないね」私は思わずつぶやいた。 「日曜、アサファ・パウエルの記録を破りますよ」 「ごめん、それは誰のこと?」 彼は私を見て目を丸くした。 「百メートル走の新しい世界チャンピオンですよ。ジャマイカのスプリンターで、アテネの陸上大会では九秒七七という記録を出しました。その前は二OO二年九月十四日にパリの大会でティム・モンゴメリが樹立した九秒七八が世界最速だったんです」 「そうか、つまり、そのアサファってやつは百メートルに十秒もかけない。それでもきみは彼の記録を破りたいって言うんだね」 「絶対に破りますよ」 若者特有の根拠のない自信に満ち溢れている。私はその匂いをかぐのが好きだ。 「日曜日の何時?」 「朝の六時です」 「うわあ、明け方に起きなくちゃいけないのか。でもきみを見に来たい気がするな。でも、なんでそんな朝早くにするんだい?」 「その時間ならだれもいませんから。いるとしても小鳥ぐらいなもんです」 「私もそこにいることにするよ。いいかい?」 「むしろ大歓迎です。ぼくは北部の出身なので、ローマには知り合いがいません。ストップ・ウォッチを持ってきますから、スタートとストップのボタンを押していただけると助かります」 こうして次の日曜日、夜明けの少し前、私たちは果し合いをするみたいに、公園の中央道で再会した。 青年はすでにそこにいた。距離を測り終わり、スタートとゴールにはそれぞれ水色の旗が立てられている。 彼は私にストップ・ウォッチを渡し、どのボタンを押せばいいか教えてくれた。 お馴染みのジャンプをしながら、スタート地点にかがみこみ、ささやいた。 「三、二、一」 「一」と同時に彼は夢に向かって躍り出した。私はストップ・ウォッチのボタンを押す。 数秒後にはすべてが終わっていた。ストップ・ウォッチの針は九秒七五を指している。世界記録よりも〇・〇二秒早い。 青年が私の横にもどってきた。 「だれにも言わないって約束してくれますか」かすかに息を切らしながら、彼が言う。 「どうして? 世界最速なんだから、有名にだってなれるかもしれない」 「おっしゃる通り、僕は世界最速です。それがわかっただけで十分です」言い終えると、青年は笑顔を浮かべた。言葉にしようのない笑顔だった。
訳:二宮大輔(ハムエッグ大輔) ローマ第三大学で勉強するかたわら、翻訳などに従事する。専攻は現代イタリアの言語学と文学。最近の興味はモーロ誘拐事件をはじめとする1970年代の社会史。